= 好奇心のパラドックス =

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 「私たちは新しい情報を求めている。」

 

 

朝起きて
テレビをつける人もいれば
スマホをいじって
Facebooktwitterを見る人もいる。

会社にいけば
毎朝のメールチェックは必須ですよね。

 

もはやそれは

歯を磨くのと同じくらい日常化しています。

 

つまり
現代の人々は
常に“情報”を求めています。

 

 

 情報の偏り?


受動的なメディアから能動的メディアへ時代が変わりつつあり
最近では、Gunosyを初めとするキュレーションが出始めて
一人一人にあった情報が得られるようになってきました。


しかし

時代の流れに逆行して

私はキュレーション自体どうかと思う時があります。


なぜなら
その人それぞれに合った情報を提供するということは
「情報が偏る」ということ。


一方、現代では
新しいイノベーション
0から産み出されるよりも
「既存のものの掛け合わせ」によって
産まれる方が多いという意見もありますよね。


それを考えると
キュレーションは時代に合っていないのではないでしょうか。

 

 

 好奇心のパラドックス

 

そんな時に、この記事を読んだ。

 

なぜ人は新しい情報を欲するのか:「情報中毒」と「好奇心のパラドックス
http://wired.jp/2010/11/30/%E3%80%8C%E6%83%85%E5%A0%B1%E4%B8%AD%E6%AF%92%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E5%A5%BD%E5%A5%87%E5%BF%83%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%80%8D/


この記事から私が感じたことは
そもそも私たちは“能動的”な“主体”であるのです。


 ①主体(情報享受者)
 ②媒体(メディア)
 ③客体(情報)


それぞれにおいて
“能動的”“受動的”が考えられます。

 

例えば
 ①ある情報に興味があるかないか。

 ②個人に合わせた情報かどうか。

 ③訴えかけてくる情報かどうか。

 


特に私たちは

①情報享受者となることが多いでしょう。


では、その情報享受者である私たちは果たして
“受動的”に情報をインプットしているのでしょうか。

 

いや、きっと
無意識の内に
自分の興味のある情報のみを精査しているのです。

 

つまり

受動的なメディア、情報であったとしても
我々の能動的なインプットの姿勢は変わらない。


むしろそれが大前提としてあるからこそ

キュレーションというものが存在するとも考えられます。


というか

普通に考えれば当たり前。

「知りたいことは知りたい。」

「知りたいと思わないことはどうでもいい」

だから耳に入ってきても

インプットせずに右から左へ流しているのではないでしょうか。

 

私は

もともとメディアに興味があって

就職活動においてテレビ局など

マスメディアを受けていました。

 

しかしこの考え方は

至極当たり前だが、とても新鮮な考え方のように感じました。

 

これをきっかけに

また新しく“情報”や“メディア”というものについて考えていこうかなー^^